私が存在する限り、死は存在せず、死が存在する限り、私は存在しない。

此処に来たばかりの私は言葉というものを知らなかった。
それに本物の人間を見るのも初めてだった。
私は人ではない。
生涯単体で生きる私にとってコミュニケーション能力は必要がない。

私は人ではない。

猫がいた。
私は言葉を話せるようになるまで猫と同じようににゃあにゃあ鳴いて猫とだけ話した。
猫は少しまだらのある綺麗な灰色をしていた。
私は人の形をしているけれど、中身は全く性質の違う生物で、
もしかしたら生物ですらないかもしれない。
生命ですらないかもしれない。
私は不安になって地面に座り込み、手近に落ちていたハンマーと小さな細い釘を拾って
左足のつけねに彫られた詩のフレーズの一文の最後の文字の下にハンマーで釘を打ち付けた。

いたい。
とてもいたい。
でも、わからない。
ここはどこ、

気がつけば私は海の底にいる。
息をしていないのに
苦しくはない。
やはり私はひとではない。
では私とはなに。

美しい黒い目、綺麗なカーヴを描く長い睫毛、
そして、左足に彫られた詩のフレーズに打たれた釘のピリオドが私を証明する。
(As long as I am, death is not, and when death is, I am not.)

世界の終わりで私が見たものは15世紀を完璧に模倣した演奏会。

初まりの曲は「武器を持つ人(Missa L’homme arme sexti toni)」。
舞台の中央には石造りの十字架が鎮座する。
誰もが演奏に見入っている中、
私は孤独でたったひとり息が苦しくなって、
ひざに頭をもたげ発狂しそうになる。
わたしは「これは夢」と呟いたあとバッグから注射器を出して足首に刺した。
それで私はやっと自分に戻る。
そして束の間、演奏の途中、胸ポケットの中の携帯が派手な音でホール中に響き渡った。
それまで熱狂的に演奏に集中していた観客の全てが私を憎しみの目で一斉に見る。
私を憎む何千という目が私を磔にする。
それは比喩だけれど、実際に私はもうこの夢の恐ろしさにまいっていて、
正常な感覚をなくしていたから、ただ怯え目を閉じるしかなかった。

指揮者の手が止まった。指揮者は手を下ろす。
そして首が古い回転人形の錆びた歯車のような動きでゆっくりと不自然な形で真後ろを向いた。
指揮者は首だけを後ろに向け、金製のタクトを私に指し「Merci!」と叫んだ。
ポンパドゥール夫人とデュ・バリー夫人が貴賓席から拍手すると皆が一斉に拍手しホール中が熱狂したあらゆる私で満たされる。
幼い私が席を立ちか細く話す。
「これは、ぜんぶ、わたし、わたし、わたしだけ、ここにはわたししかいない」
そうよ、みんな私なんだ。

「だから私はずっとひとりでいたいのよ!」

此処が何処なのか私は知らない。
それに本当は知っていたとしても、教えたりしない。
それに知る必要もない。
それを知るのは当事者である私だけでいい。
ここにいるのは私だけでいい。

1 (21)

天使と私。

私が通りに出ると誰もが一斉に振り返り立ち止まり、
穢れた乞食を見るような冷たい視線で見るのだった。
そして私が側を通り過ぎるときには必ず、「天使さまがお通りになる」と憎しみのこもった声で蔑む。
私はその仕打ちから逃れるために耳を塞ぎ、誰の目も見ないように俯いて歩かなければならなかった。

だけど本当はそれ程気にはしていない。
みんなのあたまが狂っているからなのだと私は知っていたから。

私は塔に登る。
塔のてっぺんに立つと彼らがとても悔しそうな表情をしている。
ここは私の塔だから彼らは上がってくることができないのだ。
怒り狂って道端に落ちた石を投げつけてくる男がいる。
私はそれを見つけてふっと笑ってしまう。
他愛のない彼らの子供じみた行為に私は手を振って応える。
塔の上は次第に霧が濃くなって冷気とともに私と塔を覆い隠していく。
あたり一面霧に包まれて何も見えない。
そうして私は彼らのことを忘れていき、結果的に彼らのことを許すのだ。

私はクスリを使ってどんどん深い階層へ降りていく。
意識はときに揺れながらときに私自身でありながら世界全部を構成する。
普通の夢とは違う、意図して作った夢の世界は狂いそうなほどリアルで鏡に映る私は紛れもなく私だ。
私はここで見つけなければいけない。

(何を?)

壁に三つのレリーフが飾られている。
大きさはちょうどレコードジャケットくらいで素材は三つとも違う。
それぞれにタイトルがつけられている。
左のレリーフのタイトルは「存在のない私」素材は銅で大きな天使が大勢の人間を踏み潰している様子が描かれている。
真ん中のレリーフのタイトルは「気丈な猫」素材は鉄で羽の生えた猫が空を飛んでいる様子が描かれている。
右のレリーフのタイトルは「輪廻する宇宙」素材は木で何も描かれてはいなかった。
私は少しだけ時間を進めて、雪の降る森の中を歩いている。
目を閉じると瞼に雪のかけらが降って、頬に溶けて落ちていく。
雪景色で覆われた森の先に塔が立っている。
私は塔に登る。
(私はこれを知っている。)
でも思い出すことはできない。
意識が輪郭を取り戻すと私は目覚める。
部屋は真っ暗で時計を見ると朝の2時50分。
私はもう一度ベッドに戻って目を閉じた。

1 (10)

白い猫。

今朝、シロが来たからご飯をあげたら
また新しい傷を作ってた。
もう、シロは弱いんだから逃げればいいのに立ち向かっていくから
こんなに怪我ばかり作って、本当に馬鹿な子なんだから。
どうして弱いのに向かっていくかな。
だめだよ、シロちゃんと逃げなくちゃ。
弱いとね、この世界では生きていけない。だから逃げた方がいいんだよ。
次はちゃんと逃げるんだよ。
わからないよね。
猫だから人の言葉は。
馬鹿な子、シロ。
でも可愛いよ。
だから僕が助けてあげるよ。
いじめた猫は僕が殺してくるから
もう怪我しないでね。
シロ。

1 (9)

夢で見た記憶のデッサン。

私は目に映る映像を頼りに上手く人を避けながら誰の注意も引かないように慎重に歩いている。
何かがおかしい。
私は通り過ぎる人に違和感を感じ、よく見ると人形が歩いている。
どうして人形なのかは気にならなかった。
私は再び歩き始める。
次の瞬間、私は右と左に別れ、左は記憶の中へそっと降りていく。
歩道を歩く右は相変わらず注意深く慎重に歩いている。
頭の斜め上から「私は目的地を知らない。」と三番目の私が言う。
後ろから大きなクラクションが鳴って私は振り返る。
大型トレーラーのバンパーがホオジロザメのように大きく口を開けて前を走る車を次々と食い散らかしていく。
大量の血が飛び散って私の頬についた。
トレーラーはどんどん巨大になっていき両側のガードレールを押しつぶして挟まってやっと止まった。
頬についた血を舐めるとちゃんとした血の味がした。
「人形なのに。」と私がつぶやく。
私はガソリンと血の焦げた匂いのする車道へ向きを変え歩く。
トレーラーのドアステップに足をかけて運転席を覗くとそこには四番目の私がいた。
私が見ているのは映像だから現実じゃない。
だから、私は何が目の前で起きても驚かないし、
どんな残酷なことだってする。
だって、全部、夢と同じなんだから。
先生は私に嘘ばかり言う。
警察も私に罪をなすりつける。
記憶にあるから話してるだけなのに、夢で見た話をしただけなのに。
だから私は静かに生きることにしたの。
私のしている悪いことはクスリだけ。
手に提げたバッグの中から注射器を出してクスリをつめた。
誰もいなくなった歩道にしゃがみこんで左足首に針を刺してクスリを流し込む。
そして前方から来る幾つもの光のひとつひとつが私の目の前で光の矢に変わり身体中を快感で突き刺した。
立ち上がって空を見上げるとアゲハチョウの群れが天の川を昇っていくのが見える。
青や赤や紫、黄色と色を変えながら大量のアゲハチョウが空を埋め尽くす。
振り返ると五番目の私がいて私に本当の名前を告げた。

目の前に猫がいた。
猫は私に抱いてほしいと鳴きながら私の足にじゃれてくる。
私は猫を抱き上げ私の猫にした。

此処にはもう私と猫だけしかいない。

1 (7)