天使のワイアード、ユアンという名前。

22 NOV 2109

四体の最上位AIユリシーズに先導されて、巨大な白い天使が舞い降りてきた。
その背にはとても大きな鷲の翼が4枚生えていた。
天使は白く発光していてゆっくりと翼を収め身体全体を包み込むように収縮していき、
完全に自分を覆い尽くすとワイアードをひとつ丸ごと飲み込んだ。
天使がワイアードを食ったのだ。
天使自身もワイアードであった。
ワイアードを食うワイアードは「ワイアードイーター。」と呼ばれる。
食らうたびに巨大になって強くなっていくワイアード。
天使のワイアードが論理迷宮の構築を始めると、
ワイアード全体を支配している中枢がそれを包み隠した。
天使のワイアードには名前があった。
今ではもう忘れてしまうほどに遠い記憶の電子に埋もれた、
誰に知られることもない、誰に呼ばれることもない、
二度と聞くことのない悲しい名前。

ユアン。
最上位クアンタムAI、ユアン。
それが名前。

「 つ か さ 」

26 MAR 2109
朝になって司はワイアードの最後のセキュリティゲート、
最上位AIのユリシーズを通り抜けてワイアードのメモリ中枢に入った。
13秒しかいられなかったが。
そこで司が見つけたのは、
ユアンが死ぬ直前の最後の記憶。
ワイアードに流れたデータ。
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26 MAY 2106




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26 MAY 2106

私のワイアードはきみの名前がパスワードなんだよ。
きみならいつかまたあえるから。
それまで少しだけさようなら。
いまでもちゃんとつながっているんだよ。


みつけた。
司はユアンのデータをオプティカルコンソール越しにスクリーンショットを撮ると、残り0.4秒でワイアードからブラックアウトした。
こういう最上位AIのセキュリティを相手にした場合、そこから何かを持ち出すなんてことは誰にも不可能なんだ。だから、盗むのではなくて見たものをそのまま覚えるしかない。アナログな方法だが一番安全で、痕跡も残さない。
(ワイアードの中枢メモリデータはコピーですら外部には持ち出せない。それがなんの価値もないバグテキストであったとしても、中枢メモリのイオンパルスゲージの外へ持ち出された瞬間、データはイオン相転移を起こし電子ナノクアンタムウイルスプログラムが起動すると、大量のイオンが一斉にワイアードを伝って持ち主の脳幹に到達する。つまりブレインダウンを起こす。持ち主の電脳活性はウイルスがすべて食べ尽くしデータも記憶も何もかもが消える。大量のイオンが流れ込んだ脳幹は一瞬で沸騰し持ち主は即死する。)
司はオプティカルコンソールに浮かぶ
ユアンのスクリーンショットを見ながらテキストをタイピングしてノートした。
そして「ミッションコンプリート」と小さく声に出していうと
オプティカルコンソール中央でくるくる回るユアンのHTML言語で書かれたテキストデータが浮いては沈み、
繰り返しせわしなく司の視線を誘導した。
ワイアードに長くいたせいで、司は少しハイになっていた。
何もキメてなくてもワイアードに長時間いれば誰でもそうなる。
現実に戻ると自分の体の重さと動きの鈍さが鬱陶しく思った。
ワイアードではあんなに速く動けるのにな。
体って意外と重くて動かすと疲れる。

まあ、それでも生きてる。
ユアン、僕はまだそっちへ行けないよ。
でもいつか行くから

待ってて、

1 (27)

エヴァーラスティング、灰になったユアン。

28 MAY 2106

空は初夏の始まりを告げるために
神さまが特別に用意した絵の具で描かれたような
神聖な青色を纏い、
風は幼子の頬を撫でるかのようにそっと静かに流れ、大気は上質なシルクのように
肌に優しく触れてくる。

そんな希望と祝福に充ち満ちた日、
ユアンは灰になった。

司は普段どうり、目覚めるとすぐシャワーを浴びた。
そしていつものようにバスタブの中で
煙草に火をつけると天井を見上げ、
ゆっくり煙を吐きながら、
オプティカルコンソールを展開させた。
(視界の左に映っているのは健康状態を示す体温や心拍数などの基本的なパラメーターでニコチンやアルコール、薬物など害を与える物質の過剰摂取に対する警告を示すラベルの幾つかが点滅したりポップアップを繰り返している。中央にはワイアードのアカウントが表示され、その横に網膜認証が有効であることを示す「∞」という記号が緑色で光っている。右には、現在のデイトタイム、メール、着信履歴などを示すホームリストがホログラフィックアイコンになって縦一列に浮かんでいる。)

ワイアードへアクセスする。

目を閉じると見えているのは深遠な闇。
何処を向いても何も見えない、ただ闇があるだけ。
(違う。)
何も見えないんじゃない。光がないだけだ。
司のワイアードは光さえ抜け出ることが出来ない
ブラックホールによく似ている。
高密度に圧縮された一点に
銀河ひとつ収まるくらいに相当する情報が
ぎっしり詰まっている。
司はその情報を光ではなく質量で見ている。
個々の情報のデータとしての質量が
司の意識の中では視覚化される。
司が見ているワイアードの景色はこんな風だ。
初めに暗闇の深遠にぼおっと白い光の点が現れる。
それが次第に捻れ回転しながら
眩い光を発光する巨大な二重螺旋を作り上げる。
これが司の見ているワイアード。
司が情報にアクセスする度に
瞬時に光の二重螺旋は構造がほどかれ二つに分かれる。
(二重螺旋の片方はバックアップであり構造は全く同じである。)
データが螺旋から切り離されると、
螺旋の最後尾に付け足されて螺旋の一部になる。
ワイアードの形態は人間が使う度に癖や嗜好性、
傾向の影響を受け変わっていくシステムだが
ある程度は同一性を保つのが普通である。

司のワイアードは普通とはかけ離れた特殊な形態を持っている。
機能も性能も通常のワイアードとは比較にならない。
だから普通のワイアードでは出来ないことも可能になる。

いつもの制服に着替えたあと、
右手の親指の節に何となく違和感を感じて
右手を上げて見てみると
ほんの少しだけ薄く皮がめくれていた。
たいした痛みはなかったけれど
めくれていた皮を歯で噛み切って
捨ててしまったので
傷口が空気に直接触れて
余計に痛みが増した気がした。
それで傷口を洗ってからパッチを貼ろうと
洗面台で手を洗いながら
何気なく鏡に映る自分の首元を見た。
暫く無心で見ていた。
不意に思い浮かんだこと。
そういえば僕は高等部に上がってから
一度もネクタイを付けたことがなかった。
ネクタイなんて気取ったものは
自分に似合うなんて思うことがなかった。
ん、いや、本音はネクタイが
単純に嫌いだっただけかもしれない。
ああいうのは真面目で普通な人だけが
つけるものだと思っていた。
タバコ吸ったりクスリやったりする
僕には似合わないと思っていた。
でもいま鏡の自分を見ながら、
ネクタイを付けたらどんな感じだろうかと考えている。
一度も付けたことがないネクタイ。
司はすぐにオプティカルコンソールに
いまの自分を投影させて
ネクタイをレイヤードしてみた。
初めてネクタイを付けた自分は不思議と
嫌な気がしなかった。
でもそれ以上にネクタイを付ける理由になったのは
今日は礼儀知らずではいられない
特別な日だということだった。
僕が今日ネクタイを付けることは
僕がこの世界に存在する唯一の理由、
ユアンという存在に出逢えたことへの感謝。
ネクタイを付けるという簡単なこと、
なのに一度もしたことのなかったことをすること、
それは僕からユアンへの感謝を示す為に
必要な行為だと思った。
だから今日はネクタイを締めて行こうと決めた。

初めて締めたネクタイの感触は
首回りがきつくて圧迫感を感じたけれど
うちを出る頃には気にならなくなっていた。

外に出ると風が静かに髪を揺らし撫でる。
空は眩しいほど青く良く晴れたいい天気だった。

ユアンの葬儀はこんな日に粛々と穏やかに行われた。

古くからある針葉樹の森に囲まれた高台の中心に
純白のエストラマーで作られた全て同じ形の墓標が
規則正しい巨大な迷路のように無数並んでいた。
その光景はとても美しいものだったが、
可哀想なほど寂しくも見えた。

墓地には既に大勢の同級生や親族らしき人、
そして高等部全ての教師、
学院長と各学部の委員会の取締役らが来ていて
誰もが静かにユアンの到着を待っていた。

司は予定の5分前に墓地に着いた。
みんなが一様に整列して立っていたので
司は同級生の列の最後尾に並んだ。
足音で何人かが振り返り、
割と仲のよかった同級生が司に気づき
司と目を合わせようとしたが司はそれを無視した。

葬儀は時間通りに形式に沿って
至って普通に執り行われ、
周りでは同級生の殆どが声を出さずに
葬儀が始まってから終わるまで
ずっと涙を流して泣いていた。
僕だけを除いて。

僕にとってユアンの死は悲しみではなかった。
ユアンは願いを叶えた。
理想の死に方で苦しまず死んだ。
だから、ユアンは自分の死を後悔なんてしない。
ユアンの遺灰はアルミニウムポリフオリマーで出来た
円筒形の箱の中に収まっている。

もう既に灰になってしまったユアン。
ユアンを構成していた部品はもうこの世界にはない。
全部灰になった。
灰にユアンの意識は宿らない。
これが死。
そして終わり。

(違うよ、
これが、始まりなんだよ、
ねえ、司。)

1 (17)

永遠だよ、だってきみになりたくて、September

WIERD/ワイアード[編集]
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WIERDは西暦2050年に全世界で一斉に運用を始めた地球上すべてを対象エリアとする第6世代統合情報グローバルネットワークの名称であり、WIERDを経由することによって人々はこの世界のあらゆる情報が集積される統合情報開示閲覧システムにアクセスできる。
WIERDの現在のバージョンは50.3.1である。WIERDの管理は地球軌道上に浮かぶ合計269000個のマイクロサテライトで作られた最上位AI、通称「イリン」が行っている。一つのマイクロサテライトにはバイオティックマテリアルを用いて作られた800億の人口ニューロンが詰め込まれていて、更にこの小さな衛星はその活動エネルギーを内蔵した植物生体モジュール(通称「Sophia」)による光合成で得ているため、故障がない限り永遠に活動することが可能である。そしてWIERDへのアクセスは人間の網膜に直接プリンティングするオプティカルコンソール「ヴァーチャルヴィジョン」で行う。WIERDは個体による経験によって変化する特徴を持つため、同じWIERDはひとつとして存在しない。そして、軍事産業や企業、国家が独自開発したオプションスクリプトを与えることによってその機能は大きく変わるため、WIERDは過去ワールドワイドウェブと呼ばれた「インターネット」とは全く異なる機能を持った次世代のネットワークシステムである。

最終更新 2100年1月1日 00:05

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25 MAR 2109

ワイアードの中に入ってからもう7時間が経った。
司はそれでも懲りずに解除しては次から次へと現れるアンチロックゲートを相手にしつつ、
現実世界ではオピエイドのパッチのせいで上機嫌だった。
ワイアードの中の忙しなさと対局に司の吐いた煙草の煙がゆっくりと天井に昇っていく。

司はユアンが死んでから変わった。
学年で成績が常に1位だったユアンと違って
司は授業に出ていても寝ているかサボっているかで
成績はランキングに表示されない程悪かった。
そんな司が急に授業を受けるようになり
家に帰っても勉強ばかりするようになった。
そしてユアンが死んでから三ヶ月後の実力テストで
初めてランキング入りをしたのだ。
1位だった。
誰もが驚いたが司のもっと凄いのは
それ以来、司はどんな試験であっても必ず1位をとったことだ。
ユアンが死んで司が変わったのは間違いない。
司はユアンになろうとしたのかもしれない。
実際、司の行動の理由にはいつもユアンが関わっている。
司が大学に上がるとき専攻を情報工学にしたのは
ユアンが中等部の頃から大学では情報工学を学びたいと言っていたことを覚えていたからだ。
二人が通っていた学院は中等部から大学院まで
一貫教育の有名私立の学校で日本で最も優秀と言われている。
けれど最も優秀であるのは大学の情報工学部だけなのだ。
しかも情報工学部に入学できるのは
たった20名の天才だけ。
だから、ユアンは他人より人一倍努力して勉強し
常に学年で1位の成績を維持していたのだ。

司はユアンが死んだあともずっと、
ユアンのあとを追いかけている。

ワイアードは相変わらず、
ゲートを抜けてもまたゲートの繰り返しだった。
けれど司は諦めるつもりは全くない様子で
上機嫌のまま笑みさえ浮かべていた。
ただワイアードに気づかれないだけでも
凄いことではあったが
どんな天才であっても一個人がワイアードのセキュリティを破れるとは到底思えなかった。
けれど、いまの司は無駄なことはしない。
できないと思うことはけしてしない。
だから司はオピエイドのパッチで浮遊しながら余裕なのだ。

(しかし、どうやって?)

26 MAR 2109

朝になって司はワイアードの最後のセキュリティゲート、
最上位AIのユリシーズを通り抜けてワイアードのメモリ中枢に入った。
13秒しかいられなかったが。
そこで司が見つけたのは、

ユアンが死ぬ直前の最後の記憶。
ワイアードに流れたデータ。

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26 MAY 2106




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26 MAY 2106

私のワイアードはきみの名前がパスワードなんだよ。

きみならいつかまたあえるから。
それまで少しだけさようなら。
いまでもちゃんとつながっているんだよ。


ユアン、会いに来たよ 、やっと

1 (16)

灰と幻想のユアン。

ああ、純潔よ、純潔よ。
俺に純潔の夢を与えたものはこの目覚めの時だ。—精神を通して、人は『神』に至る。
想えば身を裂かれるような不幸。
(地獄の季節:不思議/ランボオ)

4 SEP 2106

僕は自分の意思を無意識に明け渡したかのように
何も思い浮かべることもなく意識せず
ただ無意味に午後のクラスを聞き流しながら窓の外を見ていた。

(そこでは雨が降っていた。そこには霧もかかっていた。)

少し離れた場所に見えるはずの中等部の校舎は
この雨と霧のせいで薄暗い靄がかかり建物の輪郭はぼんやりとしか見えなかった。
時々靄の隙間から薄黄色く淡い光が漏れて見えた。
淡い光は等間隔に並んでいてそれが沢山の窓から漏れる光なのだとわかる。
光が強弱をつけて見えるのは靄のせいだ。

突然僕は意識をはっきり取り戻した。
そして辺りを見渡せば見えるのは灰と幻想の世界。
授業中だったはずなのに、
そこにいたはずの先生もクラスメイトもクラスルームも何もかもが消えた。
そして今僕は行ったことも見たこともない森の中に立っている。
森の中は濃い霧に包まれていて5メートル先も見えない。
そして冷気を伴って頬を濡らす大気や鬱蒼と茂る草が腕に直接触れることが
とても気持ち悪くて仕方なかった。
これは絶対に夢だと思っても、
リアリティの感度がここは紛れもない現実だと僕に告げる。
実際、直接肌に感じる大気の冷たさや
辺りの樹々に触れた肌触りはリアルそのものだった。
ここは現実の世界の何処かで
原因はわからないけど授業中だったクラスが突然消えて
僕だけがここに飛ばされた。
でも本当はどうでもよかった。
クラスにいてもここにいてもユアンはもうどこにもいないんだ。
僕は諦めて露で湿った草の中に仰向けになって寝転んだ。
見えたものはさっきと何も変わらない。
真っ白で灰色な深くて暗い霧の群れ。
僕はふとオピエイドのパッチを胸ポケットに隠していたことを思い出すと
ブレザーのポケットの中から「Heaven」と書かれたシートを取り出し、
寝転んだまま左手首を裏返してオピエイドのパッチを一番よく見える静脈の上に貼り付けた。
そしてもう一度両手を広げ寝転んで目を閉じた。
沢山の光と色鮮やかな蝶々の群れが漆黒の空に光を放ちながら舞い上がり、
真っ暗な空からは数え切れないほどの透明な槍が降ってきて
僕の体のあらゆる全身を貫くと絶頂が幸福を溢れさせた。

ユアンが死んでから3ヶ月が過ぎた。
僕は今もまだユアンの死を実感することができないままだ。
ユアンの自殺を見届けたのに
何度も何度も繰り返し思い出せるのに
ユアンは今でもどこかにいるんじゃないかと思うんだ。

目を閉じたままオピエイドの血中濃度が最高に達している頃、
僕の意識の中では幻想の中の天国で噴水広場にあるベンチに座って
ユアンと二人でいつものように何気ないことをいつまでもずっと話していた。
大抵はユアンが一方的に話しまくって僕は笑い転げている。
それは当たり前の風景で日常的にあったことなんだ。
今はもうユアンと話すことはできないけど。
オピエイドのパッチさえあればいつでもユアンにまた会える。
そうだよね、ユアン。

窓の外はさっきよりさらに暗くなって雨も強くなっていた。
悪趣味な幻覚だ。本当に死にたくなる。

気がつくと僕は涙に溢れ泣きながら、
何度も何度も「ユアン」「ユアン」と小さな声で繰り返し呼び続けた。

1 (15)

春に散る花、きみという僕。

24 MAY 2016
いつか死ぬと知ってここに記そう。
僕の企みを、いつかのきみへ
届け、

23 MAY 2109
春を長く感じるのは温度変化が少ないせいか、それとも
僕だけの気のせいなのか。
もう春を通り越して初夏だというのにまだ心が春を気取っているせいで
きみの命日を忘れそうになる。
ふちが白く天が青い空の遠い向こうから太陽の光が燦々と降ってきて、
頬に当たる風がとても気持ちのよいこんな日に彼女は死んだ。
あと3日できみの死から丸3年が経つというのに
きみという存在がこんなにも強烈に僕の中に残っている。
きみがいないということが僕にはまだ非現実的に思えるのだ。
僕はきみが死ぬのを見たし、葬儀にも参列してきみの死に顔も見た。
確かに現実ではきみはもう死んでいてこの世界にのどこにもいないということは知ったことだ。
それでもなぜか、寂しいからなのか、愛しいからなのか、わからないけれど
きみが死んだことに実感が持てない。
それがきみを失くしてから3年過ぎても何も変わらない僕の中の世界なんだ。
きみが死を願ったとき、僕は止めなかった。
きみは死ぬ前に僕にこう尋ねた。
「私、もうこれ以上大人になりたくないの。だから、18歳になる前に死にたいの。いつ迄も17歳でいたいの。ごめんね。」
きみは僕へ振り返り両手を差し伸べて更に言う。
「これ以上、ワイアードの言いなりにならないために私ここからもう離れたいの。お願い、、いいよね。」
暗い部屋できみの表情は見えなかった。でも最後の時間を楽しんでいることは口調でわかった。
そして、小さな灯りの下にいる僕の前に来ると満面の笑みをしたきみがいて、
彼女のワイアードをよく知っていた僕にはこう言うしかなかった。

いいよ。

きみは両手で優しく包み込むように僕を抱きしめながら耳元で「ありがとう。」と囁いた。
それはとても小さな声で、きみの人生最後の声だった。きみはソファに座って左手の内側に大量のオピエイドを含んだパッチを貼り付けてソファに深く沈みこんで天井を見た。
彼女は数秒後に僕に視線を戻して一瞬ちらっと見て声を出さずに笑った。(なに? さよなら、なの?)
あれはさよならの言葉だったのかもしれない。
チャイナホワイトの強力な神経毒が心臓の鼓動と共に身体中の血管のありとあらゆるすべてに行き渡っていく過程で
彼女はゆっくりとレッドカーペットの絨毯のひかれた階段を昇っていく。
彼女の時間がゆっくりになっていくのを感じた。
彼女の時間がどんどん遅くなっていく。
僕はすべて見ていた。
何も声に出さず、彼女の邪魔にならないように息をひそめて
きみがゆっくりと死んでいくのをじっと見ていた。
それらの記憶は強く残っている。
それでももうきみがこの世界にいないことが信じられないでいる。
何故だろう。
あれを全部見ていたのに。
事情聴取を受けたときにすべて警察に話した。
記録も残っている。
新聞にも載った。
それでも僕の中の細胞がきみの死を拒否しているかのように
僕の脳がちゃんと機能しないんだ。
現実逃避ではない。
記憶の改ざんでもない。
物忘れでもない。
何の問題もない。
ただきみがいない。
それだけが事実なのに僕はそれを信じていない。
これだけの証拠があっても僕のきみはこの世界のどこかで生きているらしい。
それが今現在の僕の心の中の中心で、
僕は自分のことが何もできなくなってしまった。
きみを思うあまりに僕はきみの代わりを僕の中に見つけようとしているのかもしれない。
そんなことはおかしいことだとわかっていても心が勝手にそうするのだ。
僕には何もできない。
僕はもう僕じゃないのかもしれない。
僕はもうきみなんじゃないか。
僕は僕の中に僕というきみを作り出してしまったのかもしれない。
だったら死ななきゃ。
あの日きみが僕に言ったように、僕はきみとして死ななきゃいけないんだ。
きみが死んだ同じ日に、同じやり方で。
それが僕が見ているきみなのだから。
星が生まれて死ぬシステムで僕たちは命を自由に取り扱うのだ。
きみに返すよ、この命。
僕は自我をきみに譲って、
きみがこの世を去ったあの日をもう一度繰り返すんだ。
最後にきみにもう一度会うための僕の中の、

この世界の最後の補完だよ。
何処かで見ていてね、

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